あの日、呼吸がつらくなった。
それが、日常を奪っていくなんて思わなかった。
ある日ふと階段を上がっただけで、息が切れる。
休めば治ると思っていたのに、咳は止まらず、呼吸は浅くなっていく。
それが「特発性肺線維症(IPF)」という病気の始まりだった人は少なくありません。
この病は、ゆっくりと、でも確実に肺を固くし、呼吸という当たり前の日常をじわじわと奪っていきます。
しかも、その原因は今も「わからない」まま。
これまでの治療法では、進行を止めることすら難しいとされてきました。
そんな”絶望”の前線に、AIがつくった新薬が現れたのです。
その名は「レントセルチブ(rentosertib)」。
希望は、コードの中から生まれました。
「肺が木になっていく」―IPFという静かな侵略者
特発性肺線維症は、まるで肺が「木のように硬くなっていく」病気です。
しなやかだった呼吸の器官が、少しずつ繊維で埋め尽くされ、弾力を失っていく。
息苦しさ、空咳、そして疲労が日常に忍び寄ります。
それでも、この病には「決定的な治療薬」がこれまでありませんでした。
現在の標準治療であるニンテダニブやピルフェニドンは、病気の進行を少し遅らせるにとどまっています。
つまり、回復は望めないというのが、医療の常識でした。
そこに登場したのが、AIとともに生まれた薬
もし、薬の発見や開発が人間の勘や経験に頼る時代から、AIの知性で加速される時代に変わるとしたら?
それが、今回の話の核心です。
製薬AIスタートアップ「Insilico Medicine」は、独自のAIエンジンを使って「TNIK(Traf2 and Nck-interacting kinase)」という全く新しい標的を発見。
これが、IPFに関わる炎症や線維化の中心にあるタンパク質であることがわかったのです。
そしてそのTNIKを狙い撃ちする新薬「レントセルチブ」が、AIの手で設計され、18か月で前臨床段階へ、30か月で人への投与まで到達しました。
これは、薬の開発スピードとしては”奇跡”といえる速さです。
初の臨床試験、その結果は?
2025年、Nature Medicine誌で発表されたフェーズ2a試験では、71人のIPF患者が参加し、レントセルチブを12週間にわたって服用しました。
1日1回30mg、1日2回30mg、そして1日1回60mgの3グループに加え、プラセボ群(偽薬)も設けられました。
安全性について
重篤な副作用は少なく、特に60mgを服用した患者でも深刻な健康被害はありませんでした。
副作用としては肝機能障害や下痢などが報告されていますが、概ね安全であると結論づけられています。
治療中止に至った主な理由は肝毒性や下痢で、特に肝毒性で中止した7名のうち4名はニンテダニブを併用していました。
効果について
最も高用量(60mg)を1日1回服用したグループでは、肺活量(FVC)が平均+98.4mlも改善しました。
これは、IPFの患者にとって臨床的に意味のある「回復」を示す数字です。
一方で、プラセボ群では−20.3mlとむしろ悪化していました。
なにより驚くべきは、既存の抗線維化治療薬を使っていない患者のほうが、より強く改善が見られたこと(+187.8ml)。
これは、AIが設計したレントセルチブが”今までの薬とは全く違う経路で効いている”可能性を示しています。
また、60mgグループでは患者報告による咳関連QOL(Leicester Cough Questionnaire)も有意に改善しました。
AIが見せたのは「薬が生まれる新しい物語」
人が10年かけても見つけられなかった薬の種を、AIが見つけ、育てて、わずか18か月で前臨床候補まで、30か月で第1相試験完了まで届けた。
そして今回の12週間の試験で「手応えのある結果」を示したのです。
それはまるで、かつて人類が帆船で何かを探していた時代から、ロケットで宇宙に飛び出した時代への、技術のジャンプを感じさせる出来事です。
しかもこの新薬は、体内のタンパク質の変化にも影響を与えていることが血液からも確認されました。
線維化に関連するMMP10、COL1A1、FAP、FN1などのタンパク質が用量依存的に減少し、細胞外マトリックス組織化に関連する経路が抑制されていることが示されました。
これらの知見は、未来の「個別化医療」や「老化制御」にも応用が期待されています。
終わりに―呼吸は、生きることそのもの
呼吸がつらい。咳が止まらない。その苦しさは、他人には見えにくい。
でも、患者本人にとっては人生を細くするナイフのようなものです。
そんな苦しみを、AIが少しずつほどいていく時代が、もう始まっているのかもしれません。
レントセルチブは、まだ「希望の種」です。
試験期間は12週間と短く、参加者も71名と限られていました。
より大規模で長期的な臨床試験が今後必要とされています。
しかし、これは確かに”風向きが変わった瞬間”でした。
私たちの未来に「AIが見つけた薬」が希望の息吹となって届く日が来ることを願ってやみません。
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