「おばあちゃん、また忘れちゃったの?」
その兆しを、目の奥が教えてくれる日が来た。
「最近、何度も同じことを聞かれるようになって…」
ある日、外来に訪れた女性がそう言って、少し寂しそうに笑いました。
まだ60代後半。
元気そうに見えるけれど、どうも様子が違う。
血圧は安定し、心臓の音も落ち着いている。
けれど、彼女の”心の奥”には、何かが忍び寄っているような気がしました。
そして彼女が受けた検査のひとつが「眼底写真」。
まさか、その写真が”記憶の影”を映しているとは—誰が想像したでしょうか。
心房細動と「物忘れ」の意外なつながり
心臓のリズムが乱れる「心房細動(Atrial Fibrillation/AF)」。
実はこのAFは、脳の働きにも影響を及ぼすことがわかっています。
AFは認知症のリスクを独立して高める要因とされており、具体的には、認知機能の低下や、さらには認知症のリスクを高めることもあるのです。
しかし、従来の認知機能検査には大きな課題がありました。
まず、検査には長時間を要することが多く、患者さんにとって負担となります。
さらに、適切な評価を行うためには認知症の専門医や神経心理士などの専門家が必要で、地域によっては専門医へのアクセスが困難な場合も少なくありません。
加えて、検査を受ける患者さんには一定の体力や集中力、そして何より検査への協力的な気持ちが求められるため、身体的・精神的な負担も大きいのが実情です。
こうした様々な障壁により、多くの患者さんが症状に気づいたときには既に認知機能の低下が相当進行していたという、残念な結果を招いてしまっていたのです。
「目を見るだけ」で分かる時代へ——AIが開いた新しい扉
そこで立ち上がったのが、医師とエンジニアの合同チーム。
彼らは「目の奥」を見つめました。
そう「眼底写真」です。
眼底には、脳とつながる神経や血管が張り巡らされています。
言うなれば”脳の鏡”。
そこに現れるごくわずかな変化を、AI(人工知能)が見逃しませんでした。
AIが見つけた「記憶のサイン」
中国の研究チームは、心房細動の患者 899 人を対象に、眼底写真と認知機能テストの結果を集めました。
そして、4種類の深層学習モデル(ResNet、Inception など)を使って、画像から「認知機能の状態」を予測するAIを開発したのです。
この研究では、モントリオール認知評価(MoCA)スコア26点未満、またはミニメンタルステート検査(MMSE)スコア27点未満を認知機能障害の基準として使用しました。
その結果は、医療界に大きな衝撃を与えるものでした。
なんと、眼底写真という単一の検査画像だけで、認知機能の異常を約 85% という高い精度(AUROC 0.855)で検出することに成功したのです。
この精度は、これまで医療現場で広く使われてきた従来の簡易認知テストと肩を並べるほどの優秀な成績でした。
さらに研究チームは、眼底写真に加えて患者さんの年齢、教育レベル、心不全の既往歴、体格指数(BMI)などの臨床情報も組み合わせたより高度なモデルを開発しました。
このハイブリッドなアプローチにより、予測精度はさらに向上し、AUROC 0.861 という驚異的な数値を達成したのです。
また、北京眼科研究(Beijing Eye Study)の 196 名を対象とした外部検証では、AUROC 0.773 という優秀な成績を収めました。
これは、専門医による詳細な認知機能評価に匹敵する、または場合によってはそれを上回る精度と言えるでしょう。
なぜ「目」なのか?
あなたの目の奥には「過去」と「未来」が同居しています。
なぜなら、網膜は脳の神経とつながっているから。
血流の変化や神経の劣化が、まるで地図のようにそこに表れるのです。
AIはそれを見抜きます。
たとえば、視神経の周囲や細い血管の異常に注目することで「記憶のほつれ」に気づくのです。
これは“記憶の地図を、画像から読む”技術と言えるでしょう。
「まだ間に合う」からこそ、価値がある
ここでひとつ、希望を持っていただきたいことがあります。
「軽度認知障害(MCI)」と呼ばれる段階では、元に戻る可能性があるのです。
複数の研究では、14.4% から 38% の人が正常な認知機能に戻ったという結果も出ています。
つまり、「早く気づく」ことがすべて。
それを可能にするのが、このAIによる眼底分析です。
今後、どこで活用されるの?
- 健診センターや地域のクリニック
- 高齢者施設や介護現場
- スマホ用眼底カメラとの連携で在宅スクリーニングも視野に
専門医がいなくても、非接触・非侵襲でできる。
これが、地域医療における革命になるかもしれません。
そして未来へ——記憶を守る選択を
目は”心の窓”と言われます。
でも、これからは「未来の窓」になるかもしれません。
「おばあちゃん、また同じこと聞いてるよ」
その一言を、もう聞かずにすむ日が来るように。
家族の記憶を、人生の物語を、守るために。
あなたのその目が、未来への扉を開いてくれるのです。
ただし、この技術はあくまで予備的なスクリーニングであることを理解しておく必要があります。
AIモデルで陽性と判定された患者さんには、専門医による詳細な評価が必要です。
この研究は、眼底写真の深層学習解析の臨床応用の可能性を示す概念実証として重要な意義を持っています。
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