― 院内感染を予測する、AIが見つけた「見えないつながり」
そのベッドに、誰がいたのか——それがカギになるかもしれません。
ある患者が、無事に手術を終え、快方に向かっていました。
術後の経過は順調で、医療スタッフも家族も安心していたのです。
ところが退院直前、突然の高熱。
血液検査の結果は「菌血症」—病院内での感染でした。
なぜ?
なぜこのタイミングで?
治療もうまくいっていたのに?
手術は成功し、回復も順調だったはずなのに、なぜ今になって感染が?
そう疑問に思うのは、医療スタッフも同じです。
感染症は医療現場での深刻な問題であり、なぜ感染したのかがわからなければ、他の患者への拡散を防ぐこともできません。
原因不明の感染は、医療従事者にとって最も恐れる事態の一つなのです。
けれど—
もしその答えが「その部屋の前の患者」にあるとしたら?
そして、AIがその見えない”つながり”を見つけ出せるとしたら?
これまで誰も気づかなかった、病室に残された「感染の記憶」を読み取ることができるとしたら?
感染症のリスクは「人」ではなく「人のあいだ」にある
これは、米ミズーリ州セントルイスのバーンズ・ジューイッシュ病院で 2021 年に入院した5万2千人超(52,442 人)の患者データを解析した画期的な研究で明らかになった、驚きの発見です。
この研究は、従来の院内感染予測の常識を根本から覆すものでした。
通常、院内感染の予測には「年齢」「持病」「使用している医療機器」「免疫状態」など、患者本人の情報が使われます。
これは医学界では当然とされてきたアプローチで「感染しやすいのはどんな人か」という視点で予防策が組み立てられていました。
高齢者や免疫力の低い患者、複数の医療機器を使用している重篤な患者ほど感染リスクが高いというのが、これまでの常識だったのです。
ところが今回の研究では、それに加えて、まったく新しい視点からの情報をAIに読み込ませました。
その病室に以前誰がいたのか、その患者がどんな抗生物質を使っていたのか、そして直前の7日間に何人の医師や看護師がその部屋に関わったのか—といった「患者を取り巻く環境の情報」に注目したのです。
これは革命的な発想でした。
感染症のリスクは、患者個人の特性だけでなく、その人を取り巻く「人間関係の網」の中に潜んでいるのではないか。
病室に残された”記憶”、医療スタッフの”流れ”、他の患者との”間接的なつながり”—まるで、人と人の間に見えない糸が張り巡らされていて、その糸を辿ることで感染のリスクが見えてくるかのようです。
病院という場所を改めて考えてみると、これは決して静的な空間ではありません。
24時間 365 日、患者の入退院があり、医療スタッフが移動し、医療機器が共用され、薬剤が使用されています。
一つの病室も、朝と夜では全く違う「生態系」を形成しているといえるでしょう。
AIが読み解いた「感染リスクの地図」
研究チームは、この複雑な病院内の人間関係を解析するため、AIに2つの異なるモデルを学習させました。
一つは従来通りの「患者本人の情報」だけで感染リスクを予測するモデル。
もう一つは、それに「環境要素」も組み合わせた革新的なモデルです。
5万2千人超の患者のうち、72時間以上入院した 34,855 人(66.5%)が分析対象となり、そのうち556 人(1.6%)が入院3日目以降に院内感染(HOB:Hospital-Onset Bacteremia)を発症しました。
分析対象となった患者の年齢中央値は60歳(四分位範囲 44-70 歳)、50.5% が女性で、最も多い併存疾患は肥満(25.0%)でした。
従来の患者情報のみのモデルでは、感染予測精度(AUROC)が 0.85 でした。
これも十分に高い精度といえるでしょう。
しかし、環境情報も含めたモデルでは、なんと 0.88 まで向上したのです。
統計的に有意な改善であり、実際の医療現場では多くの命を救える可能性を秘めた飛躍的な進歩でした。
さらに興味深いのは、AIが「感染に強く関係していた要素」として特定した項目です。
最も影響力が大きかったのは、その病室の前の患者が、強力な抗生物質(特に抗緑膿菌βラクタム)を使用していたという事実でした。
これは、抗生物質の使用が病室環境に何らかの「痕跡」を残し、次に入院する患者の感染リスクに影響を与えていることを示唆しています。
もう一つの重要な要素は、1日に関わる医療スタッフの人数が多いことでした。
医療スタッフは感染症対策を熟知しているはずですが、人の動きが多ければ多いほど、微生物の移動経路も複雑になり、予期しない感染経路が生まれる可能性があるのです。
つまり、あなたが病気にかかるリスクは「あなたが何者か」よりも「誰があなたの前にいたか」「誰とどれだけ接触したか」が決定的に影響している可能性があるということです。
これは医療の根本的な考え方を変える発見といえるでしょう。
「見えない履歴」を見るという、新しい医療
病院は一見、静かで清潔な空間に見えます。
白い壁、整然と並んだベッド、きちんと管理された医療機器。
しかし実際には、その表面下では、患者の入れ替わり、スタッフの移動、処置や機器の共用、薬剤の投与など、目に見えない”人の流れ”が絶え間なく渦巻く「交差点」なのです。
一つの病室を例に取ってみましょう。
午前中に退院した患者Aは、過去2週間にわたって強力な抗生物質の治療を受けていました。
その病室は清掃・消毒され、夕方には新しい患者Bが入院します。
表面的には完全にリセットされたように見える病室ですが、AIの分析によると、患者Aの「履歴」が患者Bの感染リスクに影響を与える可能性があるのです。
今回の研究は、その「交差点」に履歴という視点を持ち込むことに成功しました。
これまで医療従事者が直感的に感じていた「何となく感染しやすい病室がある」「なぜかこの時期に感染が多発する」といった現象に、科学的な裏付けを与えたのです。
この技術が実用化されれば、まったく新しい医療の景色が見えてきます。
AIが感染リスクのある病室やベッドをリアルタイムで警告するシステム。医療スタッフの配置や移動パターンを最適化して、感染経路を事前に断つスマートな人員管理。
そして、抗生物質の使用が病院環境に与える”余波”を可視化し、より適切で戦略的な薬剤使用につなげる総合的なアプローチ。
これは、「個人」ではなく「つながり」を診断し、治療する、まったく新しい医療のかたちです。
患者一人ひとりを独立した存在として見るのではなく、病院全体を一つの生態系として捉え、その中での相互作用を理解しようとする統合的なアプローチなのです。
感染症予防に必要なのは”人間関係のデータ”だった?
従来、感染症の予防といえば、手洗いや消毒、医療器具の適切な管理、個人防護具の着用などが中心でした。
これらは今後も感染症対策の基本中の基本であり、決して軽視できるものではありません。
しかし、今回の研究は私たちに根本的な問いかけをしています。
「そもそも、どの患者がいつ、どこで、どの程度のリスクにさらされているのか」
それを正確に予測できていなければ、どんなに完璧な予防策も効果的には機能しない。
例えば、感染リスクの低い患者に過度な予防策を施すのは資源の無駄遣いですし、逆に高リスクの患者を見逃せば深刻な院内感染につながりかねません。
限られた医療資源を最も効果的に活用するためには、リスクの正確な予測と階層化が不可欠なのです。
そして、予測の精度を劇的に高めるために必要だったのは、最新の医療機器でも、新しい薬剤でもありませんでした。
それは「人と人のあいだにある履歴」—つまり「人間関係のデータ」だったのです。
この発見は、医療が本質的に「人と人とのつながり」の上に成り立っていることを改めて浮き彫りにしています。
病気は個人の身体の中で起こりますが、その病気の発症や進行、治癒には、その人を取り巻く社会的・環境的な要因が深く関わっている。
これは感染症だけでなく、慢性疾患や精神的健康にも当てはまる普遍的な真理かもしれません。
最後に:未来の医療が向かう先
病院とは、無数の”見えないつながり”が複雑に交差する場所です。
患者と医療スタッフ、患者同士、スタッフ同士、そして過去と現在、現在と未来—これらすべてが絡み合って、一つの大きな医療生態系を形成しています。
そしていま、AIはそのつながりの中に潜む微細なパターンやリスクを見つけ出し、私たちが気づかなかった予防のヒントを教えてくれようとしています。
これまで人間の経験と直感に頼ってきた部分を、データと機械学習の力で客観化し、より精密で効果的な医療を実現する可能性を示しているのです。
もしかしたら、未来の感染症対策、そして医療全体は、こんな風に変わっているかもしれません。
「あなたがどんな病気を持っているか」「あなたの体調はどうか」だけでなく「誰と、どこで、どんな風に関わってきたか」「これから誰と、どのような環境で過ごすのか」を総合的に診断し、治療に活かすこと。
人が集まる場所には、目に見えない”物語”が常に流れています。
病院という特殊な環境では、その物語は時として生死を分ける重要な意味を持ちます。
その物語を注意深く読み解き、未来を予測するAIは、まさに新しい時代の医療の語り手といえるでしょう。
データと人工知能によって人間関係の複雑なパターンを解読し、一人ひとりの患者により良い医療を提供する—これは、技術と人間性が融合した、未来の医療が始まる記念すべき第一章なのかもしれません。
参考:Integrating Nonindividual Patient Features in Machine Learning Models of Hospital-Onset Bacteremia
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